「波打ち際で見栄を切る 池田庄作氏」
2022年、明けましておめでとうございます。
皆様、穏やかな新年をお迎えのことと思います。
元日に子供たちや孫と初詣、昨日は「太鼓の泉響和館」タッフとともに白山比咩神社にお参りし、今年一年の安寧と健康を祈願してきました。世はコロナ感染の第6波発生よりにわかに不安感が募りつつある今日このごろですが、私たち一人一人が自分にできる万全の予防対策をおろそかにせず、無事にこの一年をのりきっていきたいものです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
]]>9月10日、「太鼓集団天邪鬼」の35周年記念公演「情熱」が、練馬文化センターで開催されました。コロナ禍の中、入場制限5割ではありましたが、その5割がほぼ満席となり、ほっと安堵。35年前、集団立ち上げの際、代表の渡辺洋一さんから「天邪鬼」という名称を聞いた時に、一般的に使われる「あまのじゃく」、つまり「ひねくれ者」という意味が頭に浮かび、どうしてそんな思いきった名にしたのか首をひねったものでしたが、今思えば渡辺さんなりの哲学が集団名に込められ、こんにちまで第一線で活躍されてきたのでしょう。
この日の舞台は渡辺さんの正確無比な地方(ジカタ)に支えられ、35年にわたって天邪鬼を背負ってきた小川ひろみさんの大太鼓打ち込みが冴え、二人の気迫がひしひしと感じられる2時間。どうかこれからも渡辺さんの他の追随を許さない曲づくりと、優れた指導力、そして小川さんの女丈夫を活かし、ますますご活躍されるよう願ったひと時でした
]]>昨年は新型コロナウイルス感染拡大によりやむなく中止した「白山国際太鼓エクスタジア」でしたが、今年は多くの皆さんのお力添えをいただき、去る18日に無事開催することができました。
今回は林英哲さん、英哲風雲の会と「太鼓芸能集団鼓童」の皆さんとが同じ舞台に立つという、永年の念願だった企画を実現でき、これまで通算27回のエクスタジアの中でもとりわけ心に残る公演となりました。
両者ともに同じスタート地点に立ち、そこからそれぞれの道をたどり、現在に至る進化の過程を、ともに同じ時代を過ごしてきた私自身の歴史としても肌で感じてみたい気持ちもありました。
果たしてこの舞台で目にしたのは、苦しみ、もがきながらもつねに挑戦と探求を続ける者だけが到達する「芸の高み」、揺るぎない信念の結晶でした。まことに胸を打たれる舞台でした。
さらに東京の「ひむかし」、地元からは川北町の「手取亢龍若鮎組」、白山市の「和太鼓サスケ」と我が「焱太鼓ユニット」の熱演も加わり、それぞれの良さを感じながら個性を見比べることができたのも楽しいひと時でした。
実をいうと、このところ太鼓を囲む環境がともすれば冷えつつあるようにも感じていたのですが、なかなかどうして、満席の観客をこんなに熱くできるのはやはり太鼓だ!と、再認識した今年のエクスタジアでした。
出演してくださった皆さん、ご来場くださった皆さん、力強いご支援をくだった行政の皆さん、そしてスタッフとして走り回ってくださった多くの皆さん、どうもありがとうございました。心より御礼を申し上げます。
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昭和の中ごろまでは家内工業で和太鼓を製造していた浅野太鼓でしたが、45年に有限会社浅野太鼓楽器店、54年に株式会社と組織を改称するにともない、製造現場の機械化・効率化を進めてきました。45年の有限会社設立以降、大平総理大臣の時代に地方の文化だと、よびかけがあり、各地に太鼓集団が数多くでき、それまでとは格段に需要が延び、以前のような手作業では生産がまったく追いつかなくなったからです。
しかし、太鼓という特殊な製品の効率化に役立つ機械など、当時はゼロ。つてを頼ってあちこち相談していた時に、出会ったのが小松市の機械メーカー代理店の清水産業。社長の久留美栄治さんは、根っからの機械好き。最初は渋っていたものの、誰も作ったことのない特殊な機械の開発に機械好きの血が騒いできたようで、胴の中ぐりを自動で行うNC旋盤の開発に始まり、平成30年までに、なんと16の「浅野太鼓仕様」の特注省力機械の開発に成功。中でも思い出深いのは、餅つき機をヒントに皮圧縮機、サントリーさんの工場見学で参考にした桶胴太鼓の自動組立ラインや、桶太鼓用の竹材5軸加工機、胴の中彫りを自動で行う4次元の彫刻機(こんな機械は絶対に作れないと尻込みしながらも4年の歳月を費やしてついに完成)、全自動バチ製造ライン(現在一番稼働率が高い)、大小鼓胴NC旋盤など。今日の浅野太鼓があるのも、ひとえに久留美さんのご協力ゆえと言っても過言ではなく、私とメーカーとの橋渡し役としてこちらの要望を丁寧にメーカーに伝え、理想の機械を生みだしてくれた久留美さんの功績は、まさに浅野太鼓の「産業革命」の実現でした。
その久留美社長がこのたびご勇退(社長から会長職)されるにあたり、今あらためてこれまでのご恩に感謝するとともに、太鼓づくりのうえでこの上なく良きご縁をいただいた幸運をしみじみと噛みしめています。
]]>先日、書棚を整理していた際、何気なく「たいころじい」第42巻を開いたら永六輔さんがいた。2014年のたいころじい最終巻にあたり、特別企画として永さんにインタビュー。小野編集長に同行し、2時間ほど太鼓について語り合ったのが懐かしい。そのとき、永さんは尺貫法がメートル法にとってかわられたことについても、反発の熱弁をふるっていた。「日本のものづくりの元は尺貫法。その尺貫法をこの国は法律で禁じている。そういうことに対して、誰も反発しない」と。
確かに神社仏閣をはじめとする建築物や、数々の工芸・ 民芸品、そして太鼓やバチも尺貫法によってつくり出されてきた。こうした良き伝統が、西洋からやってきたセンチ・メートルによって、今、ほとんど失われようとしている。「1尺」と言っても、若者には「え?何のこと?」と聞き返されるかもしれない。それでも次につなげるべき伝統文化の一つとして、私も永さんの持論に今さらながら共感している一人である。
]]>そうした中、コロナの感染拡大により昨年はやむなく中止した「白山国際太鼓エクスタジア」について、実行委員会で協議のうえ、今年は開催することを決定!太鼓芸能が日本独自の文化として世界で認められるようになって52年。今年はその文化の端緒となった太鼓芸能集団鼓童と、鼓童から巣立って世界で初めての太鼓ソロ奏者となった林英哲さんをゲストにお迎えし、どうしても一度はエクスタジアの舞台に載せてみたかった両者の競演を実現することになりました。
今あらためて太鼓文化を振り返れば、1970年に佐渡島で「佐渡の國鬼太鼓座」が旗挙げ。その10年後、鬼太鼓座の解体とともに、英哲さんが名づけた「鼓童」が発足し、さらに英哲さんはソロ活動へ。そして私はといえば、時代を追って、鬼太鼓座、鼓童、英哲さんのそれぞれの海外公演にチューニングのために同行したこともたびたび。今年のエクスタジアのポスターを眺めながら、そんな52年の太鼓文化の歴史をかみしめている今日このごろです。
]]>去る24日水曜日、東京サントリーホールで「〜癒しのハンドフルートと圧巻の和太鼓の世界〜夢をかなえるコンサート」を鑑賞。これはトヨタ自動車が「コロナ禍において発表の場を失ったアーティストへの場を提供するとりくみ」として、昨年から取り組んでいるプロジェクトの一環。2014年から林幹さんが田川智文さんとともに大太鼓の打ち込みを約1時間にわたって行う「うねり」ライブとして申し込んだところ、採用されたとのこと。共演したのはこれまた異色のデュオで、東京音大を卒業したハンドフルートとピアノの演奏。楽器を使わず、手だけで音を奏でる文字通りのハンドフルートという奏法に驚き、相変わらずの躍動感あふれるうねりの打ち込みに感動しつつ、私は舞台中央に据えられた3尺3寸の浅野太鼓製大太鼓を眺めて、いつしか遠い追憶の世界にただよっていました。
あれは私が22歳のころ、「株式会社浅野太鼓楽器店」の前身のそのまた前身の「浅野商店」と名乗っていたころ。工場とは名ばかりの、解体した廃校舎の廃材を集めてなんとか形にした建物にトタンの屋根を葺き、夏にはおもての砂利道から砂ぼこりが舞い込み、冬にはすきまだらけの板壁から雪が吹き込む粗末な土間で、「ああ、なんとかこの貧乏から脱却し、太鼓打ちの誰もが浅野の太鼓を使いたいと、いつか言ってくれるような立派を太鼓をつくりたい!」その一念で来る日も来る日も死にもの狂いで仕事に取り組んだ日々。やがて「太鼓の里構想」を打ち立て、世界の打楽器を展示した「太鼓の里資料館」の設立、店舗と練習場を合わせた「新響館」の建設、気軽に太鼓づくりを見学できる工場の整備、女性だけの太鼓チーム「炎太鼓」の結成、そして太鼓専門誌「たいころじい」の出版。出会いに恵まれ、人に恵まれ、思い立ったことを次々に現実のものとしてきた日々が走馬燈のように脳裏をかけめぐる。そして、もっとも大きな願いだった「浅野の太鼓を一流の奏者に使っていただく」という望みも、1970年にサントリーウイスキーの当時の社長・佐治敬三さんの出資によって「佐渡の國鬼太鼓座」に納品して以来、この日本の音楽の殿堂「サントリーホール」という舞台で、先日の林英哲さんに続き、今また浅野の太鼓が高らかに鳴り響く光栄。思えばいつも「サントリー」というキーワードに励まされ、54年間走り続けて手にしたものの大きさに、あらためて無常の幸福を握りしめたひと時でした。
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続いて17日、東京のサントリーホールで林英哲さんのソロ活動50周年記念「独奏の宴−絶世の未来へ」公演。
こちらも50%の収容制限の中、これまで見たことがないくらい、日本の主だった太鼓奏者、打楽器奏者、音楽家、評論家、劇場関係者などの皆さんが客席に居並び、どれほど多くの人々が英哲さんを応援・期待しているかを物語るような風景。その空気に応えるように、舞台ではさすが第一人者としての風格と円熟を存分に見せ、まことに誇り高い独奏の宴でした。
これまでの50年、前例のない太鼓演奏家としての茨の道を一人歩んでこられた英哲さん、本当にお疲れ様でした。そしてこれからも太鼓の世界の先達として、後進に勇気を与え続けてくださることを願っています。
先般、思いがけない訃報。「鼓童」元団員の赤嶺隆さんが亡くなられたとのこと。赤嶺さんといえば、「シルクドソレイユ」に太鼓を納品することになった際、ラスベガスに同行。流ちょうな英語で交渉ごとを手際よく進めてくださり、帰りに空港で「Yes Wonderful」と別れた相手がにっこり笑って送ってくれた顔が今だに忘れられません。
今年2月に病巣が発見されたものの、延命治療は望まれず、1ケ月後にご家族に見守られておだやかに旅立ったとのこと。ご家族の皆さんのお力落としはいかばかりかと存じますが、つねに全力で生きた赤嶺さん、どうか安らかにおやすみください。ご冥福を心よりお祈りいたします。
]]>昨年末、神戸でソロ活動を続ける想咲太鼓打ち・溝端健太さんから電話あり、2月にコンサートを開催するので来て欲しいとのお誘い。
先日、時満ちて向かった会場には、観客の数5人。聞けばぜひ私に観て欲しかった舞台にて、客席にはわずかの知人のみを招待したとのこと。その言葉に胸を熱くし、こちらも真剣勝負で聴き入った独演は、音色にこだわりきちんとチューニングした太鼓に、バチの工夫や東洋ならではの配色の妙も見てとれ、コロナ禍にもめげない創作意欲を実感。
これからも公演活動の縮小や観客制限など厳しい状況はしばらく続くと思われますが、どうかモチベーションを維持して、溝端さんなりの「我が道」を進んで欲しいと願ったひと時でした。
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天正年間、上杉謙信の軍勢が輪島に攻め入った際、奇怪な鬼面をつけた名舟地区の村人が激しく太鼓をたたいて追い払ったという伝説に基づいて保存会を結成したのが1960年。
「波打ち際で見栄を切る 池田庄作氏」
日本の太鼓団体として初めてイスラエルからギリシャ、イギリス、イタリア、アメリカなど海外7カ国の公演を行ったのが1963年。この年、太鼓団体としては初めて県の無形文化財指定。松竹歌劇団「春のおどり〜御陣乗太鼓」上演。翌1964年に勅使河原宏監督の映画「砂の女」に出演。そして同年の東京オリンピック関連行事「芸能展示」と1970年の大阪万博への出演。このように結成直後からめざましい活躍ぶりで、太鼓も消耗が速く、代表の池田庄作さんが背中に太鼓を背負い、能登から電車を乗り継いでたびたび革の張り替えに来られたことを思い出します。
能登屈指の芸能として現在も相変わらずの活躍を続けており輝かしい歴史をつくってきたものは、気迫に満ちた7種類の面の威力もさることながら、保存会の皆さんのたゆまぬ芸の積み重ねがあったからでしょう。地域に伝承されてきた芸をただ守るだけでなく、絶えず進化させてきた結果が現在に至ると私は思っています。
後継者の問題など課題はあるでしょうが、いつまでも能登半島の先端に力強い太鼓が鳴り響くことを願っています。
「大太鼓はなんとしてもケヤキで」と、かたくなにケヤキにこだわる青木孝夫代表の熱意に応え、10年来ケヤキの巨木を探し求めて、この春にやっと納品した鼓童の3尺9寸の大太鼓。1980年、崩壊した『佐渡國鬼太鼓座』の座長、田耕氏に鬼太鼓座の看板と3尺8寸のケヤキ製大太鼓を渡し、残った座員で『鼓童』を設立して、未知の荒海に漕ぎ出して以来の青木氏の奮闘ぶりを知っているだけに、私はなんとしてもその願いを叶えたい一心でした。そして4年前、栃木県産の直径約2mのケヤキの原木と対面した時の感動。その日から永年の悲願は現実のものとなり、原木に初めて刃物を入れる『斧始め(写真1,2)』から皮の選別、仮張り、本張りとすべての工程に手をかけ、ようやく完成した思い入れの深い太鼓です。しかも非常に原木の素性が良く、大太鼓の胴を抜いた余材から2尺6寸の子太鼓、さらに1尺5寸の孫太鼓まで製作できたことは、予想外の幸いでした。
これらの太鼓は8月に行われた『アース・セレブレーション』で初舞台を踏み、私も自分の耳でその音色を確かめました。しかし、舞台芸能の楽器として使われる以上、なんとしても気になるのが、劇場という舞台空間での音の響きです。そこで劇場公演としては初舞台となった鼓童の12月公演の最終ラウンド、『文京シビックホール大ホール』での東京公演に、製作にかかわった社員たちとともにお邪魔しました。
開演時間が近づくにつれ、この巨大なホールにどんな響きがどう伝わるのか、我にもなく緊張が高まり、耳の奥に「ドクドク」と血の脈打つ音が聞こえてきます。そしていよいよ開演。暗転した舞台の中央で、徐々にスポットライトに浮かび上がる大太鼓に、藤本吉利氏がゆっくりと最初の一撃を振るいます。「ドーン」。ずしんと芯のある音が表革から裏革に突き抜け、余韻が美しいスロープを描いて収束していくのを聴きながら、私の脳裏には太鼓の胴の中で起こっている風景が見えました。強烈な革の振動により胴の中に倍音が高じ、内壁にほどこした扇状波動彫りの稜線の一つ一つに、転がるように音圧がこだましていく様子が。それを確認した時、私はこれで本当に鼓童の大太鼓製作が完了したことを実感したのでした。近来稀に見るケヤキの巨木に出会い、生涯忘れ得ぬ良い仕事をさせていただいたことに感謝をしつつ、帰途についた一日でした。
年が明けたと思ったのもつかのま、あっというまにもう2月。毎月恒例、白山比咩神社の「おついたち参り」は、ことのほかの賑わい。明日は節分、明後日は立春で、農事暦では新たな作物の播種の準備に入る時期。つまり、農耕民族を祖とする日本人にとって、2月こそは新たな営みのスタートの時期。心して、一粒一粒、新たな種を蒔いていきたいものです。
さて、一昨日、今年節目の年を迎える二つの太鼓集団の面々が訪ねてくれました。旗挙げから50年を迎える「鬼太鼓座」と40年を迎える「鼓童」です。久し振りにあれこれと昔の思い出話に花を咲かせたひと時、思えば私の太鼓人生52年の間、なんと多くの時間を彼らと共に過ごしてきたことか。その「時間」を今も刻んでいるのが、1975年に3尺8寸の大太鼓の締め直しに鬼太鼓座に同行してボストンへ赴いた際に購入したクオーツの腕時計。当時、テレビでは「ウルトラマン」が大人気で、敵と戦うウルトラマンのパワーが低下すると胸のランプがピコンピコンと赤く点滅するのがお決まりのパターンで、このクオーツの時計も設定した時刻になると赤い点滅を繰り返すのが気に入って大事にしてきた思い出の品。これからも休むことなく私と共に時を刻み続け、そして鬼太鼓座も鼓童も、これからも自分たちの芸をしっかり磨いていって欲しいと、切に願った睦月の月末でした。
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これらはすべて中国の神話や儒教、仏教に由来するものですが、日本では同じく中国から伝わった仏教と独自の融合を果たし、仏具にも日本独特の華麗な様式美を描くに至ったのです。紋様、色彩の意味を理解すると楽しいです。日本人の文化誇れますね。